2025年7月9日水曜日

西欧中世のカオス的世界(27) Medieval Europe by Martin Scott ( Dorset Press / New YGTheork )

 The classical empire had been essentially urban in the sense that the heart of its political and economic life had been found in the towns.

古典的な帝国は、本質的に都会型だった  /  その政治的ないし経済的な生活の中心部が、都市で発見されてきた、という意味において。 


It had depended on large-scale and regular trade.

その帝国は、大規模で定期的な交易に、依存してきていた。


To foster this trade it had successfully maintained an elaborate system of communications, well kept roads along which merchants and legionaries alike could travel, and above all the peaceful Mediterranean itself as the great central artery of its economic life. 

この交易を促進するために、帝国は、精緻な交流のシステム  //  商人や軍団の兵士たちが同じようにそれを通って移動することのできた、よく整備されていた道路  /  そして何よりも、その経済的な生活の大中心動脈としての、平穏な地中海  //   を、成功裡に維持してきていた。

  

It had depended, too, on the existence of a large professional army controlled from the centre, an army on which the whole 'pax Romana' rested, and on the existence of a large class of highly educated laymen from whom a body of professional administrators could  be drawn;   Pontius Pilate is only the most well known of these essential links in the Empire.  

帝国は、また、// 大規模な戦闘専用軍< 中央からコントロールされていた >・軍隊 [ 'ローマによってもたらされた平和’ のすべてがそれにかかっていた ]  の存在  //  そして、大規模な階級を成していた、高度な教育を受けた一般人 [ その人々から、一群の専門の行政官が抜擢され得た;ポンティウス・ピラト【イエスの処刑にも関わったユダヤ属州総督】は、この帝国の、これらの極めて重要な繋がりを形成していた人々のなかの、もっともよく知られている人に過ぎない ] の存在  //  に、依存してきていた。 












2025年7月5日土曜日

ジブラルタルの岩へケーブルカーで(6) The Cable Car to the Rock of Gibraltar


The Pillars of Hercules:    A Grand Tour of the Mediterranean 

   ヘラクレスの柱:  地中海のグランド・トゥアー

                                                                               by Paul Theroux

                                                                                                        (Penguin Books )   より



     The pillars marked the limits of civilization, "the end of voyaging," Euripides wrote;   "the Ruler of Ocean no longer permits mariners to travel on the purple sea."  

      (二本の)柱は、文明の境界、”航海の終着点” を画していて、エウリピデスは書いた; ”海の支配者【ポセイドン】は、航海者に、これ以上、葡萄酒の色の海を旅させてはくれない。”


And later in the second century B.C., Polybius wrote, "The channel at the Pillars of Herakles is seldom used, and by very few persons, owing to the lack of intercourse between the tribes inhabiting those remote parts ... and to the scantiness of our knowledge of the outer ocean." 

そして、その後、紀元前二世紀に、ポリビウス【古代ギリシャの歴史家】は書いた、 /  ”ヘラクレスの柱の海峡は、滅多に使われないし、ごく僅かな人々にしか使われないが、それは、この僻遠の地に住んでいる諸部族との交流が無いことと...私たちの、海峡の外の海の知識の少なさ、のためである”

* Herakles   この部分では、ギリシャ語で表記されています。



     Beyond the pillars were the chaos and darkness they associated with the underworld.

 柱の向こうには、人々が地下の世界を連想する、混沌と暗黒があった。


Because these two rocks resembled the pillars at the temple to Melkarth in Tyre, the Phoenicians called them the Pillars of Melkarth.

これらの二つの岩は、ティルス【現レバノンの古代都市】にあった、メルカルト神に捧げられた神殿にある柱に似ていたので、フェニキア人は、それらをメルカルトの柱と呼んだ。


Melkarth was the Lord of the Underworld -- god of darkness -- and it was easy to believe that this chthonic figure prevailed over a sea with huge waves and powerful currents and ten-foot tides.

メルカルトは、地下世界の主 -- 暗黒世界の神 -- だったが、この地下世界の王が、巨大な波と力強い潮流と十フットの潮で、海を意のままにしている、とは、容易に信じられることだった。


2025年7月4日金曜日

ミノア人: ミノア交易帝国の発展(9) The Development of a Minoan TLife

 Minoan Life:   Life in Bronze Age Crete    by Rodney Castleden  

           (  Routledge  /  London and New York  )  より



      Counterbalancing the outflow of products and services was a large range of imports.

  広い範囲にわたる輸入品が、生産品やサーヴィスの流出と、釣り合いを保っていた。


The Minoans seem to have been self-sufficient in terms of basic needs, which must have put them in a position of trading strength.

ミノア人は、基礎的な必需品については自給自足していたようだが、そのことは、ミノア人を、交易において強気な立場に置いたはずである。

* seems to have been:

          *   seems to be = seems「(~と)思える)」+  to be  ( "→ be"  /  be に到達する )  

        =「 ~ であるように思える」

と対比すると、

    *   seems to have been = seems

+ to have been( "→ have been"  /   完了の動詞・不定詞   /  ~であった、という動きに到達する) 

=「~であったように思える」


There was a port called Minoa on the south-west coast of Sicily which may have been a Crete-controlled trading station. 

シシリーの南西海岸には、ミノアと呼ばれた港があって、そこは、クレタに支配された交易基地だったかもしれない。

* may have been:

         *   may be = may + be(動詞・原形  /  (~) である)

      =「(~)であるかもしれない」

と対比して、

  *   may have been = may + have been( 完了の動詞・原形  /  これまで (~)だった 」

=「(~)だったかもしれない」


Quite what the Minoans wanted from the west is not known.

ミノア人が、西方から何を欲しがったのかは、はっきりとは知られていない。


Their interest may have been in Sardinian copper or Etruscan tin;   the Minoans needed tin to make bronze, and the sources of their raw materials are unknown.

ミノア人の興味は、サルディニアの銅やエトルリアの錫にあったのかもしれない; ミノア人は、青銅をつくるために錫を必要としていたが、それらの原料の供給元は知られていない。


The tin may have come from Etruria, Bohemia, Spain, or even Britain.

  その錫は、エトルリア、ボヘミア、スペインから、あるいはブリテンからさえも、来たのかもしれない。

*   may have come

=  may [ 助動詞・現在形  /  『現在』おいて「かもしれない」と判断 ]

  +   have come 「(これまでに) 来てしまった」

=「来たのかもしれない」 


Britain may also have been the trade-source of the small amount of amber found in Crete.  

ブリテンは、また、クレタで発見された少量の琥珀の輸入品供給地だったかもしれない。


A gold-mounted disc of amber found at Knossos may have come from the Wessex culture of southern England.

クノッソスで発見された、金で装飾されている琥珀の円盤は、南部イングランドのウェセックス文化から来たのかもしれない。


2025年7月3日木曜日

『 ”時・条件の副詞節” では、「未来の動詞 ( will do )」を「現在の動詞(動詞・現在形)」で代用する』は、「錯覚」では?(4)

 "My Name Is Aram" ( William Saroyan )  の "The Summer of the Beautiful White Horse" の続きで、

Aram を振り落として駆け去った白馬をつかまえた後、Mourad は、

自分は、馬にしてもらいたいことを、馬がしたいと思わせることができる、

と言い、その秘訣を、

I have an understanding with a horse.  「俺は馬がわかっているんだ」

と説明するのですが、

Aram が、自分もその an understanding を身に付けたい,と言うと、Mourad は、

  

You're still a small boy.   「君はまだ小さいからな」

When you get to be thirteen you'll know how to do it.

「君が(俺と同じ)13歳になれば、どうすればいいかわかるよ」

と言います。

Aram がいずれ13歳になることは確実なので、『現在形』"get" が使われます。


get to be thirteen = get「動いて」+  to be「be に到達する」+ thirteen

          =「13歳になる」


 その後、Mourad がその白馬を、一か月、隠していることを知った Aram は、

I want you to promise not to take it back until I learn to ride.

「僕は、君に、僕が乗り方を覚えるまで、馬を返さないと約束してもらいたいんだ」

と Mourad に言います。

 Aram が馬に乗れるようになるのは、先の時間域においてですが、

Aram としては、なんとしても乗れるようになりたい、絶対に乗れるようになるんだ、という思いで、必ず実現する「うごき」というニュアンスで、『現在形』"learn" を使っています。


 しかし Mourad は、

It will take you a year to learn to ride.

「君が乗れるようになるには、一年かかるだろうよ」

と返します。

 Aram が Mourad のように乗れるようになるのにどれくらいの時間が掛かるかは『推測』するしかないので、"will take" が使われます。


その後、

( Aram )  We could keep the horse a year.   「(その気になれば)一年、馬を手元に置けるよ」

( Mourad )  What?   Are you inviting a member of the Garoghlanian family to steal?

   「(正直さて知られている)ガローラニアン一族の人間に盗みをしろっていうのか?」 

     The horse must go back to its true owner.

     「馬は本当の持ち主のところへ帰らなきゃいけない」

( Aram )   When?

( Mourad )   In six months at the latest. 「遅くても6か月後には」


というやり取りがあり、さらに二週間、早朝に馬に乗り続け、馬を廃農園の納屋へ連れて行く路上で、二人は白馬の持ち主の John Byro に会い、

John Byro は、馬を良く見たうえで、


I would swear it 'is' my horse if I didn't know your parents.

「君たちの親御さんを知らなければ、私はこれは間違いなく自分の馬だと言い切るだろう」

  ( would swear ,  didn't know = 仮定法過去 )

The fame of your family for honesty is well known to me.

「君たちの一族が正直で有名なことを、私は良く知っている」

Yet the horse is the twin of my horse.  「でも、この馬は、私の馬に瓜二つだ」

A suspicious man would believe his eyes instead of his heart.

「疑い深い人なら、自分の心ではなくて自分の目を信じるのだろう」

( A suspicious man が『仮定』のニュアンスを持ち、

would は「仮定の助動詞」の『現在形』。 会話の当人 John Byro は、『現在』にいるつもりで話しているので)

Good day, my young friends.

Good day, John Byro, my cousin Mourad said.


 この出会いの翌朝、二人は白馬を John Byro の納屋へ返します。 

2025年6月26日木曜日

『”時・条件の副詞節”では、「未来の動詞 ( will do )」を「現在の動詞 (動詞・現在形)」で代用する』は、「錯覚」では?(3)

 (2)にあったように、ある「うごき」が「これから先の時間域において実現する可能性がある」という判断は、考える人次第(主観的な判断)である場合が多いのですが、

客観的な事情から、

「ある事態(そして、その事態を成り立たせる”うごき”)が、確実に実現する」、

と判断される場合もあり、

その場合ももちろん、「実現可能性のある”うごき”であることを表す、動詞・現在形」が使われます。

 

 たとえば、the Andromeda Galaxy(アンドロメダ銀河)は、秒速・約122kmという猛スピードで(と言っても、宇宙のスケールからすれば、蟻が大陸を横断するようなかんじでしょうが)、

私たちの the Milky Way Galaxy(天の川銀河)に接近しつつあり、約40億年後には、両者は衝突するそうで、これは、確実に発生する事態だそうです。

 ただ、恒星どうしがきわめて遠く離れているので

(地球に一番近い「プロキシマ・ケンタウリ」が4.24光年、二番目に近い「リゲル・ケンタウルス」が4.37光年、三番目の「バーナード星」が5.96光年、四番目の「ルーマン16」が6.5光年、5番目の「ウォルフ359」が7.8光年という具合で、たとえば

4.24光年は、100億光年より遠い天体がいくらでもある宇宙では、隣の家のように近くに思えますが、言うまでもなく、これは光が4.24年間飛び続ける距離なので、やはり実感できないほどの大変な遠さです)、

アンドロメダ銀河と天の川銀河が衝突する時も、恒星どうしが衝突することはまずないそうです。

 こうした事態を表現すると、

When the Andromeda Galaxy collides with our Milky Way Galaxy in about 4 billion years , no stars will collide with each other due to the great distances between them. 

「アンドロメダ銀河が、私たちの天の川銀河に、約40億年後に衝突するとき、星々の間の遠大な距離のために、星どうしが衝突することはないだろう」


のようになり、

* 二つの銀河の衝突は、現代の天文学の見解では「確実に実現する」ので、

  『動詞・現在形』collides、

* そのときに、恒星どうしは、まず、衝突しないだろう、という事態は、あまりに遠い先の時間域のことで、個々の恒星の動きは『推測』するしかなく、

  『未来の動詞』will collide 

が用いられます。

   

『”時・条件の副詞節”では、「未来の動詞(will do)」 を 「現在の動詞(動詞・現在形)」で代用する』は、「錯覚」では? (1)

 If it rains tomorrow,  we will cancel the picnic.

「明日、雨が降るなら、ピクニックはやめにします」

では、


 "tomorrow"と、「明日」の事態を述べているので、明らかに『未来』のことを扱っています。

それなのに、"rains"という、『動詞・現在形』が使われているので、どうしても、

「未来の動詞」 ”will rain” が、『動詞・現在形』"rains"で「代用」されている、

ように見えます。


 しかし、"tomorrow" が表す『未来』は、カレンダーや時計のような「時間のモノサシ」で捉えられる、「先の時間域」としての『未来』です。


 そして、「時間のモノサシ」で捉えられる『未来』と、

「未来の動詞」"will rain" で扱われる『未来』とは、

まったく別のものです。

ここに、『時・条件の副詞節では、「未来の動詞」が「現在の動詞」によって代用される』という、不思議な文法規則が発生した原因があるようです。


 未来の「うごき」を表すためには『助動詞』"will" が用いられ、

"will do" となりますが、 

"will" のはたらきは、もともとは『推測』です。

つまり、はっきりとはわからない、自信を持ってこうだと断言できない事態を、「 ~だろう」と一応言っておくのが、will のはたらきです。


 たとえば、空間でも水中でも、近くにあるものは、はっきり見えるので、「あれは、~だ」と断定できます。

したがって、 それほど遠くない海面上に黒いものがあって、形からクジラだと、自信をもって判断できるなら、

"That black thing over there is a whale."    

と言えます。


 それが、もっと遠い、水平線の上に見える黒い点となると、自信を持って判断できないので、

"That black speck on the horizon will be a whale."

のように、

「あの、水平線の上の黒い点は、クジラだろう」と『推測』することになります。

( ただ、will が使われるのは、かなりの自信を感じている場合で、自信があまり無い場合は、

  might、could [ 弱い実現可能性を表す助動詞・(過去形の形であっても、この例文では)現在形 ] が使われます) 


 つまり、空間における「距離」と「自信の程度」の間には、ある程度の相関関係があって、

距離が近くて、自信を持って「あれは、~だ」と言える範囲と、

 その向こうの、自信を持てずに「あれは、~だろう」と言う範囲に分かれます。


 「時空」という概念があるように、「空間」と「時間」は、奥行きがあるという点で、似ています。

「空間」を「時間」に置き換えると、

「空間」の場合と同じように、

「時間」は、

「それは A だ、と自信を持って判断できる時間の範囲」と、

「自信を持って判断できず、あれは A だろう、と推測するしかない時間の範囲」

とに分かれます。


 かなりの時間を隔てているために、先の「時間域」において、ある事態が発生することを断言できず、『推測』するしかない場合は、

"will do" が用いられ、


 先の「時間域」における事態であっても、そこでの「うごき」の実現を見込める場合は、

『推測』の要素が無いので、

"do(動詞・現在形)" が用いられます。 

 つまり、「時間のモノサシ」のうえでは「先の時間域」(『未来』)の事態であっても、

それとはまったく無関係に、そこでの「実現の見込みがある”うごき”」は、

『動詞・現在形』do で表されます。



『”時・条件の副詞節”では、「未来の動詞( will do )」を、「現在の動詞( 動詞・現在形 )」で代用する』は、「錯覚」では?(2)

(1)の内容をまとめると、


『動詞・現在形が扱う「現在」の範囲は、「うごき」が実現すると見込める時間の範囲』、

ということになります。


 If it rains tomorrow, we will cancel the picnic.

では、

「雨が降る」という事態が、(実際に降るかどうかには、まったく関係無く、)

実際に降ることを「前提」にしないと、

「その場合は、~しよう」という対応を考えることができません。

 したがって、この場合は、「現在において考えて、実現する見込みがあると思われる”動き”」を表す「動詞・現在形」"rains" が使われます。


次は、"My Name Is Aram" ( William Saroyan ) の中の、

"The Summer of the Beautiful White Horse" の一場面で、

カリフォルニアの小さな町の夏の明け方、眠っていた Aram(9歳)の部屋の窓ガラスが叩かれ、外を見ると従兄のMourad (13歳)が美しい白馬に跨っていて(前月から、ある農家の馬を黙って連れ出して、廃農園の納屋に隠していたのでした)、二人で白馬を走らせた後、まず、Mourad が一人で駆け、次に Aram が一人で乗ったとき、この朝までに何度も乗っていた Mourad と違って、馬に乗るのが初めてだった Aram は、馬を走らせる方法を知らず、馬はじっとしたままでした。

 そこで、Mourad は、馬の筋肉 (muscles )を蹴るように言い、さらに、

    We've got to take him back before everybody in the world is up and about.

 「そこらじゅうの誰もが起きて、出歩く前に、馬を戻さなけりゃならないんだ」

と言います。( have<助動詞> got to take = have<他動詞> to take )

人々が起き出すのは、これからですが、それは常識的に、確実に起こることで、また、その事態が起きなければ、"We've got to take him back" という対応も出てこないので、

『動詞・現在形』が使われます。


 ところが、Aram は、腹の筋肉を蹴られて勢いよく走り出し、道路を逸れて果樹園のブドウの木々を飛び越えだした馬から振り落とされ、二人で大急ぎで馬を探さなければならなくなって、その時の Mourad のセリフが、

”If you come upon him, be kindly.   I'll be near." 

「馬に出くわしたら、やさしくしろよ。 俺は近くにいるからな」

で、

馬に出会うという事態が発生しなければ、"be kindly" という対応もあり得ないので、

馬に出会うという事態は、必ず発生してもらわなければなりません。そこで、

「時間のモノサシ」では、「先の時間域」における事態(馬が見つかること)であっても、

『現在において考えて、実現可能性のある”うごき” を表す「動詞・現在形」』come upon が使われます。


 馬が遠くへ駆け去ってしまって、二人の男の子では見つけられない、ということも、客観的には考えられるのですが、Mourad は、見つけないわけにはいかない、見つかるはずだ、という思いで、実現可能性のある『動詞・現在形』come upon を使っています。

つまり、「”うごき”が実現するかどうか」は、多くの場合、主観的に判断されることになります。


 「先の時間域」において、Aram が白馬に出会うことは、「そうであってもらわなければ困る」ので、

come upon が使われますが、

そのとき「Mourad も近くにいるだろう(、だから安心しろ、) 」という事態は、確実性が無く、 『推測』するしかないので、

will be near  

 と、「未来の動詞」が使われます。