2011年11月22日火曜日

英語は理科系科目だ、と考えた方がいいのでは?

知らない道を行くとき、分岐点に来れば、どちらに行けばいいか迷います。このとき、正しいルートを示してくれる標識があれば助かります。
  日本語は、このような標識のある道に似ています。助詞(が、は、を、に etc)が、主語や目的語などを教えてくれるので、助詞に注意していれば文の構造が分るからです。
  一方、標識の無い道では、分岐点では、何らかのヒントを手がかりに、どの道を行くか、自分で判断しなければなりません。
英語は、標識の無い道に似ています。単語の種類(品詞)や文型を手がかりに、自分で文の構造を探らなければならないからです。
  この点で、英語は、(自然界から抽出された)法則を手がかりに自然界を見、その中に秩序を見出してゆく自然科学に似ています。
  さらに、英語を複雑にしている要因である複合的な動詞(進行、受動、完了など)は、『「時間の流れ」の外にある動詞(原形、現在分詞、過去分詞、to不定詞)を、助動詞を介して主語に接続させる』という、共通した、論理的な構造を持っています。したがって、原形、現在分詞、過去分詞、to不定詞が、それぞれの時間的な守備範囲を持ち、しかもそれらが相互に補完的であることを納得できれば、それらを元に作られる進行、受動、完了などが、それぞれに得意な分野を担当しながら英語という大きな体系を動かしている、兄弟のような関係であることがわかります。
以上のことから、英語は、
(1) 文型に慣れる。
(2) 複合的な動詞に慣れる。(進行、受動、完了、現在完了進行、未来完了受動 etcは、複合的な動詞の問題) 
の二つの方向からアプローチするのが効率的だと思われます。
(1)も(2)も、英語が論理的な体系を持っていることを示していますから、それを踏まえて、たとえば進行なら、〜ing (現在分詞)はどういう内容を表し、be (助動詞)はなぜ必要なのか、ということを理論的に納得することが、英語全体がどのように出来ているのかの理解につながり、結果的には早道と思われます。

  ちなみに、文型 が判明すれば、いわゆる特殊な構文のようなものも、苦労して丸暗記する必要がなくなります。変わったタイプの文はたしかにありますが、それらもやはり普通の文型に則って組み立てられている、普通の文なのです。
  たとえば、いわゆる「鯨構文」の場合、A whale is no more a fish than a horse is の a horse is の後にa fish が省略されていて、『馬が魚である』という明らかに非常識な内容を表し、no more       than  が 『それ以上ではない、つまり同じ程度だ』という内容を表しますから、『鯨を魚だと言うのは、馬が魚だと言うようなもの』という意味になります。no more     than a horse is は A whale is の is に対する副詞的な説明です。文型は、S(A whale)  V(is)  C(a fish) となります。a fish がCになるのは、A while = a fish という関係が(文法上は)成り立っているからです。

  これは実際にもよく使われる構文です。 その一例。
"You can no more become a good doctor without a through understanding of gross anatomy than you can become a good mechanic without opening the hood of a car." (Michael Crichton: Travels)
医学部(マイケル・クライトンはHarvardの医学部出身)の教授が、解剖実習を始めるにあたって学生たちに言う言葉です。やはりthan以下は『車のボンネットを開けずに優秀な整備士になれる』という、常識的にあり得ないと分る内容になっていて、『肉眼(で見える範囲を扱う)解剖学の完璧な知識が無くて優秀な医師になれる』と言うのはそれと変わらない、という意味になります。文型は、S (You)  V(can become)  C (a good doctor) で、”no more        than以下” は、become(前の) に対する副詞的な説明です。

  余談ですが、よく『習うより慣れろ』と言われ、それはその通りだと思いつつも、『習う』も大事だと気付かされたのは、以前、大型バイクの免許を取るための練習をしていた時でした。当時は、県内に一カ所しか無い試験場で一発試験を受けるしかなく、ナナハンに慣れるために、ある練習場で、ナナハンを借りて場内を走っていました。
たまたま、コースの左縁石に沿って直角に左折したところ、意外なことが起こりました。左折した後、バイクがコースの中央まで勝手に寄ってしまったのです。こんなはずはない、
と思って、ハンドル操作や体重移動に気をつけながら何度もやってみたものの、そのたびに、左にきったハンドルが強い力で押し戻してきて、どうしてもバイクは大きく右に寄ってしまうのです。
その時、練習場の指導員が、着座位置を確認したら、と助言してくれました。スタンドで直立させたバイクのステップに立って、両手を高く頭上に上げ、それを前に水平になるまで下しながらシートに腰を下ろしたところが、その人にとっての座るべき位置なのです。その方法は知っていましたが、その時まで、それほど意味のあることとは思わず、中型バイクに乗っていた時も、足を着きやすくするため、シートの幅が狭い前寄りの位置に座っていたのです。
正しい位置に座って走ってみて、驚きました。あれほど頑固に右へ寄っていたバイクが、嘘のように従順に、縁石に沿って左折してくれたのです。それまで意味の無いオマジナイのように思っていた着座位置の確認方法は、バイクの重心とライダーの重心が最も良く調和する位置を割り出すための、バイクの運転にかかわる最も基本的で最も重要な技術だったのです。なぜなら、正しい位置に座っていないと、運転操作とバイクの動きの間にはズレが生じ、予想外の動きをしてしまうからです。200キロを超える車重のナナハンは、低速で走っているときでも大きな慣性の力を持っていて、倒れまいとして、間違った着座位置に起因する無理な操作を跳ね返してしまったのです。
この経験から、バイクの操縦は物理的な法則が支配する世界であり、それを無視して思い通りに動かせるわけではない、ということを実感しました。
かつて、浅間山の麓の火山灰のコースで行われた、日本の代表的なライダーが集まったオートバイのレースで、無名の若者が出場していきなり優勝したことがありました。当時、コーナーを回る時は、車体をスピンさせる程の遠心力を発生させない範囲のスピードで走ることが常識でした。ところがこの若者は、並み居るベテラン・ライダーよりも遥かに速いスピードでコーナーに突っ込んで行ったのです。当然、大きな遠心力(正確には慣性力)が発生し、後輪がコーナー外側へ滑り出した時、彼は前輪が同じ方向へ向くように(つまりコーナーの外へ向くように)ハンドル操作をし、後輪の滑りに対抗してスピンを防ぎ、半ば横滑りするようにしてコーナーを抜けました。
真っ先にゴールインした彼を人々が取り囲み、どこで、誰からあんな走り方を教わったのか、と口々に尋ねた時の彼の答えは、誰にも教わっていない、ただ、ああすると速く走れるから、というものでした。逆ハン(カウンター・ステア)という、慣性をコントロールする技術を、おそらく彼は自分の経験の中からヒントを見つけて研究し、独力で開発したのです。先人が作り出したものの範囲を超えて、自分でまったく新しい原理や技術を発見する人を天才と呼ぶとすれば、彼はまさに天才です。
英語の話に戻りますが、英語をやっていれば必要な文法は意識しないで身に付くから特にやる必要はない、という意見があり、ことによると絶対多数派かもしれません。じつは、バイクの練習でも、滑りやすい砂地などで一人でバイクを乗り回すのが最高のトレーニング、と言われます(そういう場所は、滅多に無いでしょうが)。習得しようとする対象に直に取り組んで、必要なものは自分で発見し吸収する過程が最も面白いので、英語の文法に関しても、必要なことは自分で気付けばいいのだ、という考えは、大いにもっともだと思います。しかし、英語と日本語の言語としての体系が余りにも異なるために、言い換えれば、共通する部分が余りにも少ないために、英文法の体系の全体を独力で把握することは、正方形と三つの直角三角形を見て自分でピタゴラスの定理を発見するような天才的な人でないと難しいでしょう。オートバイの操縦でも、革命的な逆ハン走法を発見するには、特別な才能が必要でした。英語をやるには天才でなければならない、というやり方は、無理があると思います。
英文法について極力説明しないで慣れるのを待つ、というやり方で、もっとも被害を受けるのは、理科系の人たちでしょう。理系のセンスを持つ人たちは、混沌として見えるものの中にも法則があり、その法則を使って改めて見れば、混沌としていたものがスッキリとする、という考え方をしますから、英文法について疑問を感じれば、それを解明しようとします。そのときに納得のいく説明やヒントが得られれば、それを機会に理解が進みます。こうして疑問を持ち、それが解明されることが繰り返されるうちに、始めはバラバラだった各事項がつながり、英文法の全体像をつかむことができます。そういう意味で、英語のような論理的な体系を持つ言語は、理系の人に向いていると思います。ところが、習うより慣れろ、と説明を拒否されて、疑問に対して論理的な説明が得られないと、混乱を抱えたまま進むことになり、やればやるほどこんがらがってくる、ということになりかねません。こうした事情は、理系、文系を問わず、実はすべての人に当てはまるのではないでしょうか。