So what do we know? (7)
In researching ancient religion, archaeology often leads us to focus not on how people worshiped during their lifetimes, but on their culture's beliefs surrounding death.
古代の宗教を探究することにおいて、考古学が、人々がその生存中にどのように崇拝していたか、についてではなく、その文化の、死に関して信じられていたこと、について、私たちを注目させることが、よくある。
This is in part because burials and cremations leave more evidence in the earth than, say, a fire ritual or an animal sacrifice, the remains of which are often indistinguishable from those of a feast.
これは、埋葬と火葬が、たとえば火を使う儀式や動物の生贄 [ それによって残されたものが、祝宴の後に残されたものと区別がつかないことが、しばしばである ] よりも多くの証拠を、土の中に残すことが、一つの理由である。
Death is one of the great mysteries religion seeks to explain, and the burial practices of a culture can tell us much about what its peope valued and believed.
死は、宗教が説明しようとする大きな謎のうちの一つであり、或る文化の埋葬のやり方は、その文化に属する人々が、何に価値を置き、信じていたか、について、私たちに多くの事を教えてくれる。
While many have claimed the Celts believed in reincarnation, the evidence is sketchy and subject to misinterpretation.
* 多くの人々が、ケルト人は、魂が、死後、再び肉体に宿る、と信じていたと、主張してきているが、その証拠は表面的で、誤った解釈に従っている。
Burying the dead with objects of daily life (clothes, shoes, weapons, pots) might be said to indicate a belief in some kind of afterlife, or may simply indicate offerings to the gods to honor the dead.
死者を、日常生活用品(身に付けたもの、履いたもの、武器、壺や鍋)と共に埋葬することは、或る種の死後の生があると信じていたことを示していると言われるかもしれないし、また、単に、死者を讃えるための、神々への供物であることを表しているのかもしれない。
* 『現在』(の文脈)における might は、may の『過去形』のかたちを借りて、may よりも『実現可能性』が弱いことを表し、『現在形』です(『過去形』の might は別にありますが)。
したがって、
「死者を讃えるための、神々への供物であることを表しているのかもしれない」は、may によって、ある程度の確信をもって考えられていますが【副葬品に対する、或る程度、常識的な判断なので】、
「或る種の死後の生があると信じていたことを示していると言われるかもしれない」は、might によって、「そういうことも、ひょっとすると考えられるかもしれない」という弱い可能性の判断【古代の人々が何を考えていたかという内面の世界は、あくまで想像するしかないので】であることが示されています。
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