done『過去分詞』、doing『現在分詞』、to do『不定詞』が、
『主語』の V「うごき」を表すには、
『主語』に接続しなければなりません。
ところが、done、 doing、 to do は、
「時間の流れ」の”外”にあるので、
「時間の流れ」の”中”にいる(ある)『主語』には、
そのままでは接続できません。
『動詞・現在形』do (does)、『動詞・過去形』did は、
「時間の流れ」の”中”にあるので、
「時間の流れ」の”中”にいる(ある)『主語』に、そのままで接続します。
この事情を”可視化”するために、
これらの「動き」( V「うごき」の"素<もと>" )を、
「ボール」にたとえてみます。
「時間の流れ」を「川の流れ」にたとえると、
『現在』は、そのうちの ”a地点 ~ b地点” の範囲で、
『主語』は a地点にいて、ゴムボート( スピードは出ませんが、流れるだけなので)に乗って、浮かんでいます。
『主語』の隣にボール(ヨガボールなら直径45センチくらい。もちろんサッカーボールでもかまいません)が浮いています。
ゴムボートは、『主語』を乗せて流れ、
ボールも流れます。
同じ流れに浮かんでいるので、流れる速さは同じです。
したがって、『主語』には、ボールがどのくらいの速さで流れているか、わかりません。
『動詞・現在形』は、
元々は、「時間の流れ」の外にあった『動詞・原形』ですが、
「時間の流れ」の『現在』の領域に来て『動詞・現在形』になり、
『主語』がボールに手を載せて、『主語』とボールが繋がって、ボールは『主語』の V「うごき」になります。
『動詞・現在形』が、ボールとして実体化しているのは、
「実現可能性」がある範囲で、b 地点までです。
b地点を超えると、実現可能かどうかわからなくなり、ボールは消失します。
( b地点の向こうは、『助動詞・現在形』will によって推測することになります。)
『過去』も、”a地点 ~ b地点” が、「時間の流れ」の上流へ移動するだけで、
他は同じです。
「実現可能性」がある間は、ボールが実体化していますが、
b地点を超えると、ボールは消失します。
( b地点の向こうは、『助動詞・過去形』would によって推測します。)
ここまでは、ボールは、『主語』から見えていて、V「うごき」として使う場合は、
ボールに手を載せて、繋がります。
ところが、done、doing、to do のボールは、
「時間の流れ」の上にいる『主語』からは見えません。
「川の流れ」と違って、「時間の流れ」では、
『主語』の上流側にも下流側にも、ゴムボートの前後にスクリーンが取り付けられているようなもので、
スクリーンが『主語』と共に移動して、
「これまで」の領域も「これから」の領域も、見せてくれないからです。
したがって、
「これから」を流れ下るボールも、
「いま」を流れているボールも(ボールの速さは、『主語』にはわかりません)、
「これから」を流れ下るボールも、
「時間の流れ」の”外”(『時間の流れ』の”岸”の上)から見ることになります。
そこには、スクリーンが無いからです。
『主語』は、done も doingも todo も、直接に見ることができませんから、
まして、『動詞・現在形』、『動詞・過去形』の場合のように、
『主語』が、直接に手を載せて、繋がって V「うごき」にすることもできません。
このように、「動き」を表すボールにも、『主語』から、
「見えるボール」と「見えないボール」があります。
したがって、『主語』が done、doing、to do に接続して V「うごき」にするには、
何らかの方法で、
『主語』と done、doing、to do のボールが、繋がらなければなりません。
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