かつて、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われましたが、
江戸時代の雰囲気が残っていた頃の東京の浅草で育った、 時代小説家の池波正太郎氏の回想記によると、
若いころ、東京の鳥鍋屋の一部屋で、親友と鳥鍋を食べていたら、突然、部屋の襖が荒々しく引き開けられ、以前に因縁のあった中年の男が、若い男を二人連れて仕返しに現れたので、咄嗟に卓上の煮えている鍋を、男の胸に(顔に、ではなく)投げつけて部屋を走り出、友人も、驚いている相手に向かって「間抜けめ、おととい来いっ」という捨て台詞を投げつけて部屋を飛び出て、先に表に出て鳥鍋屋の塀の陰に居た池波氏が、友人を追って来た若い男二人を、手近にあった大きな塵取りで叩いてひるませた、とのことでしたが( 池波氏によると、「江戸の喧嘩」は、字義の通りに、口で華々しくやり合うもので、そこへ刃物などを持ち出したら、江戸の喧嘩ではなくなってしまう、とのことでした )、
「おととい」という「過去」の時間にさかのぼって「来る」ことは不可能なので、
「おととい来い」、「おととい来やがれ」は、
その「来る」という”うごき”を実現させることは不可能なことを承知したうえで、
「できるもんならやってみろ」という、相手に対する挑発、からかいのニュアンスを持っています。
同じ発想から、英語でも、
「過去にさかのぼって、新しい“うごき”を実現させることはできない」ことから、
『過去形』が「”うごき”の実現が不可能、あるいは、実現性が弱い」ニュアンスを持つようになり、
ついには、動詞・助動詞の「カタチのうえでの過去形」を使って、「現実の世界」とは別の「仮定の世界」を表現するに至ったのが、『仮定法』です。
したがって、「仮定の世界」では、
『現在形』は「カタチの上での過去形」であり、
『過去形』は、「”過去の前の時間”を表す単独の語形」が無いので、
やはり「カタチの上での過去形」が使われます。
「仮定の世界」では、動詞・助動詞の『現在形』も『過去形』も、ともに「カタチの上での過去形」なので、
「仮定の世界」でも『時制の一致』は発生するのですが、
「現実の世界」では、『現在形』と『過去形』が、多くの場合、語形が異なっているために、『時制の一致』がはっきりとわかるのに比べると、
「仮定の世界」では、一見、『時制の一致』が起きていないように見えます(聞こえます)。
たとえば、
Astronomers said, "If the Earth were in Neptune's orbit, it would be too cold for us to survive."
「”仮に、地球が、海王星の軌道にあれば、気温が低過ぎて私たちは生存できないだろう”と、天文学者は言った」
の場合、said が示すように、発言は『過去』においておこなわれていても、"・・・” の発言は、発言者が『現在』にいるつもりで話しているので、
were = 「仮定の世界」の『自動詞』の『現在形』
would =「仮定の世界」の『助動詞』の『現在形』
です。
" ” を外すと、
Astronomers said if the Earth were in Neptune's orbit, it would be too cold for us to survive.
のようになって、
"・・・" という中身が、 "『過去』 の時間のなかへ放り出される” ので、
were =「仮定の世界」の『自動詞』の『過去形』
would =「仮定の世界」の『助動詞』の『過去形』
に変わります。
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