(1)の内容をまとめると、
『動詞・現在形が扱う「現在」の範囲は、「うごき」が実現すると見込める時間の範囲』、
ということになります。
If it rains tomorrow, we will cancel the picnic.
では、
「雨が降る」という事態が、(実際に降るかどうかには、まったく関係無く、)
実際に降ることを「前提」にしないと、
「その場合は、~しよう」という対応を考えることができません。
したがって、この場合は、「現在において考えて、実現する見込みがあると思われる”動き”」を表す「動詞・現在形」"rains" が使われます。
次は、"My Name Is Aram" ( William Saroyan ) の中の、
"The Summer of the Beautiful White Horse" の一場面で、
カリフォルニアの小さな町の夏の明け方、眠っていた Aram(9歳)の部屋の窓ガラスが叩かれ、外を見ると従兄のMourad (13歳)が美しい白馬に跨っていて(前月から、ある農家の馬を黙って連れ出して、廃農園の納屋に隠していたのでした)、二人で白馬を走らせた後、まず、Mourad が一人で駆け、次に Aram が一人で乗ったとき、この朝までに何度も乗っていた Mourad と違って、馬に乗るのが初めてだった Aram は、馬を走らせる方法を知らず、馬はじっとしたままでした。
そこで、Mourad は、馬の筋肉 (muscles )を蹴るように言い、さらに、
We've got to take him back before everybody in the world is up and about.
「そこらじゅうの誰もが起きて、出歩く前に、馬を戻さなけりゃならないんだ」
と言います。( have<助動詞> got to take = have<他動詞> to take )
人々が起き出すのは、これからですが、それは常識的に、確実に起こることで、また、その事態が起きなければ、"We've got to take him back" という対応も出てこないので、
『動詞・現在形』が使われます。
ところが、Aram は、腹の筋肉を蹴られて勢いよく走り出し、道路を逸れて果樹園のブドウの木々を飛び越えだした馬から振り落とされ、二人で大急ぎで馬を探さなければならなくなって、その時の Mourad のセリフが、
”If you come upon him, be kindly. I'll be near."
「馬に出くわしたら、やさしくしろよ。 俺は近くにいるからな」
で、
馬に出会うという事態が発生しなければ、"be kindly" という対応もあり得ないので、
馬に出会うという事態は、必ず発生してもらわなければなりません。そこで、
「時間のモノサシ」では、「先の時間域」における事態(馬が見つかること)であっても、
『現在において考えて、実現可能性のある”うごき” を表す「動詞・現在形」』come upon が使われます。
馬が遠くへ駆け去ってしまって、二人の男の子では見つけられない、ということも、客観的には考えられるのですが、Mourad は、見つけないわけにはいかない、見つかるはずだ、という思いで、実現可能性のある『動詞・現在形』come upon を使っています。
つまり、「”うごき”が実現するかどうか」は、多くの場合、主観的に判断されることになります。
「先の時間域」において、Aram が白馬に出会うことは、「そうであってもらわなければ困る」ので、
come upon が使われますが、
そのとき「Mourad も近くにいるだろう(、だから安心しろ、) 」という事態は、確実性が無く、 『推測』するしかないので、
will be near
と、「未来の動詞」が使われます。